安い英会話教室
ポロポロと涙を流しながら式場から出てきた私を見かけて、私のことを覚えていたIさんの子息が「Uさん、よく来てくれたね」と声をかけてくれた。
出棺までの間、私がIさんの英語屋を務めていた当時お世話になった、懐かしい人たちとも出会った。
悲しい雰囲気の中にも、昔話に花が咲いた。
その中で、みな異口同音に言っていたのは、「Iさんの近くで仕事ができて、本当に楽しかったね」ということだった。
さようなら、Iさん。
それからさかのぼること7年前の1990年12月、それまで4年半にわたって務めたIさんの英語屋の仕事を終えた私は、ソニーの某営業本部に異動して国内および海外営業の仕事についた。
異動直後から現場の喧噪に巻き込まれて多忙な日々を送っていたせいか、その前後の出来事はあまり印象に残っていない。
そのころ、私があまりにも安い背広を着ていたのを(しかもまだ独身だったことを)気にしていたのだろうか、英語屋の仕事を離れたあとになって、I夫人が「何もしてあげなかったから…」と言って銀座の三越に私を連れて行き、ブレザーと背広を1着ずつ買ってくれた。
私としては、恐縮するやら気恥ずかしいやら…といったところではあったが、何だか古い商家で奥様からそっとお小遣いをもらった丁稚の小僧になった気分もして、妙にうれしかった。
それから2年余りが経った。
私は営業の現場で係長になっていたが、いろいろと仕事をやっていくうちに、「このままサラリーマンをやっていて、自分は10年後、20年後にハッピーな人生を送っているだろうか〜」と思い悩むようになった。
たとえ管理職になれたところで、自分で納得のいく、満足できる仕事をしていなければ人生は無意味だ。
そう思い至った私は、会社を辞めて独立することにした。
Iさんが社内に作っていた東洋医学の診療所で鍼灸の治療を受けたおかげで何とか歩けるようにはなったが、このような身体の不調も私が会社を辞めるに至った遠因だったかもしれない。
なおこの腰痛は、私が会社を辞めると同時に完全に治ってしまった。
その当時は気がつかなかったが、自分で思っていた以上に精神的なストレスがかかっていたようだ。
退社の手続きは実にそっけないものだった。
当初、私は半紙に筆で黒々と「退職願」と書いたものを、上司の机にバーンとたたきつける自分の姿を想像していた。
しかし実際は、会社が用意してある所定の用紙に理由と日付を書いて判を押し、庶務の女性に渡すだけだった。
退職理由を書く欄は、「私は()により…」のカッコ内に適当な言葉を入れなさいという、まるで入試問題のようなものだった。
それを見た私は、苦笑しながら「私事都合」とだけ書いた。
日本の会社を自ら辞める場合、これ以外に書く言葉などあるはずもない。
会社を辞めることにしました、と秘書のKさんに挨拶に行ったところ、Iさんが何日に出社されるから、そのときにご挨拶なさい、というありがたいご配慮をいただいた。
ついでに書いておくと、Iさんが名誉会長だったころは、定年で退職する従業員一人一人に自ら感謝状を手渡し、記念写真を撮っていた。
このようにして感謝状を渡された人は、毎週4、5人くらいはいたと思う。
これは人から聞いた逸話だが、どちらかといえば会社と対立する立場を取っていた人が定年退職したときの話。
社内の誰かが、「あの人に名誉会長自ら感謝状をあげる必要などない」などと進言したらしい。
それを聞いたIさんは、憤然としてこう言ったという。
「この会社で働いてくれたことに変わりはない。
感謝状はほかの皆と同じく、私自身の手で差し上げる」Iさんはそれほど心優しく、律儀な経営者であった。
会社を去る直前、私は役員室に挨拶に向かった。
久しぶりに見たIさんは、車イスに乗っていた。
身体も一回りくらい細くなっていた。
言葉のほうもかなり不自由で、口数もめっきり少なくなっていたが、頭の中では相変わらず、様々な考えがはり巡らされているようだった。
「ソニーを辞めることにしました。
あまりお役に立てない英語屋で申し訳ありませんでしたが、本当にお世話になりました…」ぼそぼそと小声でそう挨拶した私に、Iさんは何も言わなかった。
ただ、車イスの膝の上で、そっと私の手を握ってくれた。
そのとき私は改めて思った。
この偉大な創業者の身近で、曲がりなりにも英語屋の仕事をさせてもらえて本当に良かった、と。
Iさんの近くに仕えた4年半は、ある意味では現場の仕事からかけ離れた、いわばモラトリアムのような期間でもあった。
まるで一炊の夢のように過ぎたこの期間を総括して私はこう呼んでいる。
偉大な起業家のそばに英語屋として仕え、有意義で貴重な経験を積むことのできた日々。
それまでの人生で最も楽しかった、あの「4年半の休暇」と…。
コミュニケーションの優劣を決めるものここの冒頭、私は「英語屋と呼ばれたことを誇りに思っている」と書いた。
その気持ちは今たかが英語屋、されど…でも何ら変わりない。
俗に「語学屋」とか「英語屋」と呼ばれる人々は、社内で「ゼネラリスト」を自称する人々から便利屋としてこき使われる存在に過ぎない。
そのような蔑視も、かつてはあったかもしれない。
かくいう私自身も、外国語というのはあくまでコミュニケーションの手段に過ぎないと思っている。
だが諸先達の努力によって、最近は通訳や翻訳者の仕事が認められ、一部では脚光を浴びるようにさえなってきた。
通訳や翻訳者の中には、伝達すべき内容やその背景について、そこらの自称「ゼネラリスト」などよりもうんと勉強している人がたくさんいる。
特に(私がかつてやっていたような身振り手振りも交えながらの通訳と違って)通訳用のブースの中で純粋に「言葉」だけで勝負する同時通訳者のような「プロ中のプロ」の努力や見識、技術たるや相当なものである。
もしかしたら、語彙に乏しい某政治家本人の言葉を通訳するよりも、よほど上手にわが国を代表することができるかもしれない。
しかし、こういった人々の才覚の大部分は、表には出てこない。
時には依頼人に理解されず、正当に評価されないこともあるだろう。
それでもこういった言葉のプロたちは黙々と働いている。
Iさんという人は、語るべき話の中身もたくさん持っていたし、コミュニケーションの大切さを知っていた。
一介のヒラ社員である英語屋の私の仕事ぶりについても、評価するところはきちんと評価してくれた(もっとも、ダメな奴だと思われたほうが多かったかもしれないが…)。
だからこそ、英語屋としての私も納得して仕事をすることができた。
自戒の意味も込めて言えば、平均的な日本人はコミュニケーションがまだまだ下手だ。
それは「英語が流暢に話せない(またはうまく聞き取れない、書けない、読めない)」などという単純な問題ではない。
話すべき内容や主張がない、話していることが論理的でない、(たとえばユーモアやウィ″トを交えるといった)コミュニケーション上の気配りひとつできないといった、もっと根本的な問題なのである。
気の利いた英語の言い回しをひとつ、ふたつ知っているかどうかなど、所詮は末節の問題に過ぎない。
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